甘ったれクリーチャー [作者:直十]
■26
「さあ……」
イシュの問いに、ゾルヴァは首を傾げ、だけど。
「でも、そう思ってくれていたのなら……とても嬉しい」
答えはそれで充分だった。その答えを聞いた瞬間、イシュは今まで築き上げてきた世界が瓦解する音を聞いた。
「じゃあ……」
虚脱感と虚無感に苛まれ、世界が壊れた衝撃にいっそのこと笑みさえ浮かべながら、イシュは涙をこぼす。
「俺は、その子からもお前を奪ったことになるじゃないか……」
涙は、止まらなかった。それもそうだな、と薄く笑うゾルヴァの声も遠く、イシュは涙をこぼし嗚咽を堪える。
「これは、罰なのか……」
頭を抱え、綺麗な色の金髪を掻き毟って、イシュはともすれば咆哮してしまいそうな罪に耐える。
人の身に抱えるにはあまりに重く、耐え切ることなどできそうにもないそれに、それでも耐える。
「仮にも神の名を冠する者を殺した……、一つの種族を完全に滅ぼした……罰なのか……!」
罰だとしたら、それはとてつもなく酷い罰だ。イシュは、少女の大切なゾルヴァを殺したイシュは、その事実を直接少女に告げなければいけない。
それはなんて、なんて酷い、罰。或いはこれは、ゾルヴァの呪いなのか。
でもそれはきっと、これほどの罪に与えるべき罰なのだろう。否、これほど酷い罰でも、この罪を贖うには足りない。
どれほどの罰を受けたところで、この罪が贖えることなどきっとない。
イシュはこれからの人生ずっと、贖えることのない罪を抱え永劫に足ることのない罰を受け続けるのだ。
それが、神の名を冠する者を殺した、一つの種族を滅亡させた、そして人一人の平穏と幸福を奪い、
何も知らない幼い少女の大切な人を奪った、イシュの運命だ。
「……わかった。確かに、伝えよう……」
「そうか……。ありがとう……」
最後に礼を告げて、ゾルヴァはもう、一言も発する力もなく唇を閉じる。
緑と青と白に染まっているはずの視界は、もう霞んで何も見えなかった。森に満ちているはずの鳥のさえずりも聞こえず、草
木が発酵したような生気に満ちた匂いもしない。手足の感覚はすでになく、口の中に溜まっているはずの血の味すらもう感じられなくなっていた。
零れ落ちる命は、もう尽きかけていた。
それでもゾルヴァが感じていたのは、絶望でも悲しみでも虚無感でもなかった。もうほとんど使い物にならなくなった五感で精一杯世界を感じ、
それでも闇へ閉じていく意識を満たすのは、どうしようもないぐらいの、幸福感だった。
最後にリリと過ごした二日間、ゾルヴァは本当に幸福だった。生まれて初めて手に入れた平穏は世界を塗り替えるほどに温かく、
生まれて初めてできた大切な人は世界なんかよりもずっと愛おしかった。
それだけでもう、全てが足りた。千年の封印も、世界との隔絶も、連鎖を生きる苦痛も、
その二日間の前には寸毫の価値も意味も持ち得はしなかった。あの平穏と幸福が、ゾルヴァの全てだ。
もう闇しか見えなくなった視界に、リリの笑顔が映る。リリが悲しむだろうなと思うと死にたくなかったが、もうどうしようもない。
だからせめて、これから大きく成長するリリの未来が幸福に満ちていますようにと、願う。自分に神に等しい力があるというのならば、せめて。
そしてゾルヴァはリリの笑顔を映した瞳から一筋の涙をこぼし、もう永久に永劫に、目を覚ますことはなかった。
そして軍の援護部隊がゾルヴァの死体とイシュを発見したのは、それから二時間の後だった。
ゾルヴァの死体の横で白痴のようにぼうっとしていたイシュは、秘書を務める部下に揺り起こされて、ようやく意識を取り戻した。
「……イシュ様、お疲れ様でした。城の方で熱い紅茶もケーキも蜂蜜もアップルパイも泡風呂もマッサージも全部手配いたしました。
ああ、でもその前に怪我の治療ですがね。ですが今はとにかく……帰りましょう」
イシュの頬にこびりついた血をハンカチで拭いながら、部下はイシュに優しく語りかける。
多大な疲労と苦痛を感じているであろうイシュを労わり、強大な責務を無事終えたイシュを慈しむ、とても優しい言葉だった。
だから、イシュは。
「……っ、く、ううう……っ!」
「イ……イシュ様!?」
その碧眼から、大粒の涙をこぼしていた。
だって、自分はそんな優しさを向けられていい人間ではないのだから。優しさを向けられてはいけないほど、罪深い人間なのだから。
だからイシュは部下に縋りついて、嗚咽をこぼし、泣き続ける。
きっとこれから先、優しさを向けられるたびに抉られるような胸の痛みを感じながら生きていくのだろうなと、
イシュはそんなことを思いながら泣き続けた。
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