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スパイダー [作者:那音]

■3

  声をかけていたそいつは、とても胡散臭い風貌だった。
  年齢は二十代半ばぐらいで、体格は良く背が高い。ただ極度の癖毛はフケだらけで、顎には不揃いに薄くひげが生えている。
 着ているトレーナーとジーンズは裾がほつれ薄汚れていて、口にくわえた煙草はとても短い。
  よく見れば端整な顔をしているのだが、その格好は完璧に若いホームレスだった。
  頬の筋肉が引きつり、軽くひく。失礼かもしれないけど、この格好を目の当たりにしたら不可抗力だと思う。
「連れてってくれるって……どこに?」
  回れ右、で全力ダッシュが正しい判断だったのかもしれない。だけど思わず聞き返してしまった。なんだか負けた気がする。
「どこにって、今君が行きたいと願った世界へ」
  ああ、やばい。これは完璧にやばい人だ。これは今からでも遅くはない。回れ右、でダッシュ……
「まあ待ちなさいよ」
  だけど走り出す寸前に襟首をつかまれて、駆け出そうとした足は空転する。
「自分から望んだのに逃げるとはどういうこったい」
  呆れるようなため息をつかれて、軽く怒りを覚えた。
「わ……私が望んだって、何をよ!?」
「ここから逃げたい」
  つい数分前に思っていた言葉を即答されて、一瞬頭が真っ白になる。
「君はこの世界での生活に耐えられなくなっていた。退屈という病に侵されて息ができなくなっていた。
だからこの世界から逃げたいと思っていた。……違う?」
  私の心中を一字一句違わずそいつは言い当ててみせて、軽く戦慄する。こんなに薄ら寒い気分になるのは、多分生まれて初めて。
「あんた……一体何なのよ」
「俺? 俺は……そうだな。俺を知る多くの人は、俺をクモって呼んでるよ」
「クモォ?」
  あまりにあんまりな名前に思わず素っ頓狂な声を返してしまう。
「クモって、虫のほうのクモ?」
「まあ、そうなんだろうね」
「そうじゃなくて、本名は?」
「知らないよ。ていうか忘れちゃった。昔は持ってた気がするんだけどね、本名。でももうずいぶんと昔のことだから」
  理解を超えた返答に軽く眩暈さえ覚える。やっぱりこれは、何が何でも逃げておくべきだった。……今からでも間に合うだろうか。
「それで、君の名前は?」
  その言い方が、あまりに気さくで軽かったから。
  逃げるタイミングを窺っていた私は、思わずそれに答えていた。
「諸江麻理(モロエマリ)」
「そう。マリ、ね」
  その瞬間、そいつ――クモの姿が掻き消えて。
「――――あ、れ?」
  喧騒の中に一人、私だけが残された。




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