スパイダー [作者:那音]
■9
クモは貯水タンクの上からひょいと飛び降りると、重力法則を完璧に無視してふわりと屋上に降り立った。
「俺は便宜上クモって名乗ってるけど、元々は名前なんてとっくに失くしてるんだ。
もしかしたらクモじゃない誰かなのかもしれないし、本当に幻なのかもしれない。それは俺にもわからないよ」
クモはだけど、一気に不安になるようなことを言う。クモが幻だというのなら、なんだかこの世界の全ても幻のような気さえした。
足元がガラガラと音を立てて崩れるような感覚に、眩暈さえ覚える。
「じゃあ……どうすればいいのよ……」
喘ぐように、呟く。足場を失った私は不信感の海で溺れて、ただひたすらに苦しくて本当に藁にも縋りたい気持ちだった。
「信じるんだよ」
差し出されたのは、藁なんてか弱いものじゃなくて、光のように強い声。
「俺が幻じゃないと“信じる”。この街があの美しい街だと“信じる”。信じればそれは、紛れもないマリの世界なんだから。
マリが幻じゃないって信じたなら、それはもう絶対幻なんかじゃないんだよ」
「絶対……?」
「そう、絶対。信じればそれが、マリの真実なんだから」
「真実……」
その声はあまりに力強くて、だから私はこれが幻なんかじゃないと確信できた。
溺れていた私の手をその声は引いて、新しい陸地へと私を導いた。再び陸に立った私の中にあるのは、ただひたすらの、安心感――。
「そっか……」
信じるという陸地は、私が知る限りの何よりも強靭に思えた。
その時、学校中にチャイムが響いた。授業が、始まる。
「あれ? 行かなくていいのかな?」
「……いい」
なんだか今は気分がいいから、授業に行く気にはなれなかった。屋上でサボるというのも、なんだか新鮮でいい。
「クモ、まだここにいる?」
「うん? まだいるけど、なんで?」
私は貯水タンクの影に入って寝転がった。ここならまぶしくないし、風邪を引くこともきっとないだろう。
「私ちょっと寝るから。誰か来たら起こして」
「寝るの?」
「うん」
「わかった。見ててあげるよ」
「変なことしたら殴るからね」
「……わかった」
そうして私は目を閉じ、とろとろと眠りの世界に落ちていった。
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