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愛のことば [作者:那音]

■15

中は当然、酷い煙だった。
私はハンカチを口に当てて、なるべく身を低くして進んだ。それでも煙たさに咳き込むのは止められない。
煙で視界が酷く悪かったけど、記憶を頼りに何とか進む。
窓がほとんどなくほぼ空気の循環がないため、火はそれほど燃え広がってはいない。
だけどその分煙が充満する。火にまかれることはないけれど、問題はこの煙だ。吸いすぎないように気をつけなければ。
私は悪い視界の中で、何とかそこにたどり着く。
面会室。
そこはこの病棟の構造を全く知らない私が唯一知っている、彼のところへ続く道だった。
彼がいる非常口はこの病棟の隔離側にある。隔離側にはきっと一筋縄では行けない。けどここは別だ。
ガラス一枚を挟んだ向こうは、彼がいる隔離側なのだ。
面会室の鍵は開いていた。私はその中に急いで入り、扉を閉める。中は密閉された空間のためか、煙は比較的薄かった。軽く息をつく。
面会室は薄く煙が充満しているだけで、以前と全く変わらなかった。こっちのほうには火は来てないのだろう。丁度よかった。
私はいつも使っていた椅子を手に取った。確かにガラスの向こう側は彼がいる場所だけど、それでもまだ目の前のガラスが道を遮っていた。
だから私は両手でつかんだ椅子を強く握り、思い切り振りかぶってガラスに叩きつけた。
一度目は、物を壊すのなんて初めてで力がうまく入らなかったのか、椅子はガラスに弾かれた。
二度目。今度こそ思い切り力をこめたおかげか、また弾かれはしたけれどガラスにひびが入った。
三度目。ひびが大きくなった。
四度目。――椅子がガラスを突き破り破片を派手に撒き散らかして、ガラスが割れた。
向こうのほうが煙が濃かったのか、煙がこちらに流れ込んできて咽る。
私は私が通れるようにまた何度か椅子でガラスを割った。私が通れるぐらいに大きく、通る時に怪我をしないように尖った部分も割る。
そうしてガラスに大きな丸い穴が開いて、私は椅子を踏み台にしてテーブルにのぼり、穴をくぐる。
散らばった破片に気をつけて、私は面会室の向こう側に降りた。

やっぱりこっちのほうが煙が濃くて息がしにくい。私は一度仕舞ったハンカチを口にあて、面会室を出た。
その先の廊下では奥のほうで火が燃えているようで、むっとした熱気が篭っていた。
同時に煙の濃度が先程とは比べ物にならないぐらい濃くて、ハンカチを当てていても咽る。
火は右手の奥のほうで燃えているらしく、火が爆ぜる音が少し聞こえた。
だけど空気中の二酸化炭素濃度が上がっているから、これ以上燃え広がる心配はないと思う。

私は顔を上げて廊下を見回す。煙で視界は悪かったけど、非常口を示す標識を見つけた。
私はそれを頼りに駆け出す。彼が近くにいることに胸が高鳴った。苦しかったけど、深呼吸も出来ない。
長い廊下を走ったり曲がったりして非常口へ向かう。だけどなかなかたどり着けない。なんて広いんだろう。
でも患者一人一人に部屋が与えられてその患者の数も多いのだから、当然なのかもしれない。
一度足を止めしゃがんで何とか乱れた息を整える。足元のほうがまだ煙が薄くて息はしやすい。
大丈夫かな、と思う。
今から彼のところへ行って、彼と一緒に外に出て、多分外に出れても二酸化炭素中毒で倒れるだろう。
今だって頭がくらくらして、少し頭痛も起きているのだから。
でも、間に合うだろうか。致死量を吸う前に、ここから出れるだろうか。もし、間に合わなかった、そのときは――

ピシ、と頬を叩く。駄目だ。煙を吸い続けているせいかぼんやりしてきている。しっかりしろ。
立ち上がり、また駆け出す。
非常口はもうすぐだ。早く彼を助けて、彼と一緒にここから出て、彼と、青空の下で抱き合うのだ。キスだって、してあげる。
だから、早く。速く。
しばらく走ると廊下の曲がり角に突き当たる。そこを曲がって、私は、
私はそこに、彼の姿を見た。
彼は崩れた瓦礫の前にうつ伏せに倒れていて、足音で気付いたのか、顔を上げて私を見ていた。
嬉しくて泣きそうになった私に対して、彼はとても辛そうにとても悲しそうに顔を歪めた。



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