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死神の岬へ  [作者:直十]

■15

  人々の魂が、東から赤く染まっていく夜明けの空に溶けて消えていく。
  慶吾はあんなにも残酷な死の記憶を見たにも関わらず、白い煙のようなそれに、満足そうに永遠の眠りにつく人々の顔を見たような気がした。
  それは全ての負の感情を洗い流し、全ての災厄から解放された、あまりにも安らかな死に顔――。
それはあまりに美しく尊い死の光景だった。
  どくん、どくん、と心臓の音が耳元で聞こえる。先ほどの涙で濡れて冷えた頬に、また熱い涙が伝った。
  死は、恐怖だった。だけどそれと同時に死は、こんなにも美しく、尊いものだった。
「あ……」
  ふいに玲奈が、小さく声をあげた。顔を向けると、玲奈の目の前で白い野良犬の輪郭がゆらりと揺らいでいた。
  そしてその輪郭が徐々に失われ、中身が――きっと魂と呼べるものが――漏れ出していく。
「あ……あ……ああっ、駄目!」
  玲奈は悲鳴のような声を上げて、逝こうとしている野良犬にしがみつこうとする。
  だけど相変わらず玲奈の腕は白い魂をすり抜けて、野良犬を止めることはできない。
「駄目……駄目っ! 行かないで! 行かないでっ! 駄目えっ! 行かないで!!」
  それは、絶叫と言っても差支えないような叫びだった。
  玲奈の見開いた瞳から涙が噴き零れ、野良犬に触れられない指先は、消え逝く魂を追うように空に伸びる。
  だけどその指先は空を掴む。野良犬の魂はどんどん色を失い空に溶け、やがて完全に空に消えた。
  玲奈は空に手を伸ばした格好のまま、凍りついたように動かなかった。玲奈は悲痛に見開いた瞳に何を見たのか。
  野良犬が溶けていった空を見つめるばかりのそれからはとめどなく涙があふれ、やがて玲奈は凍りついた手をゆっくりと下ろし、
  支えを失ったかのように項垂れた。
  慶吾はゆっくりと立ち上がり、項垂れたまま死んだように動かない玲奈を後ろから抱き締めた。
  その、信じられないぐらい優しい温もりに、長く息を吐く。生きている人間の体温は、こんなにも優しく、愛おしい。
  死の恐怖と尊厳を見た慶吾にとって、それは何物にも代えがたいほどの幸福だった。
「玲奈、帰ろう……」
  玲奈を抱きしめて、慶吾は呟くように言う。
「死ぬのはさ、まだまだ、もっと先でいいんだ。死は俺たちみたいな、まだ全然生きてない人間が手に入れていいようなものじゃなかったんだよ。
もっとたくさん、たくさん幸せになってから、やっと手に入れられるようなものなんだよ。だからまだ、俺たちが死ぬのは早すぎるんだよ……」
  自分は十分に幸福だった。死は簡単に手に入るようなものではなかった。
  死なない理由なんていくらでもあった。生きていく理由なんていくらでもあった。
  ここには、いくつもの抜け道があった。
「だから、帰ろう。帰って、最後まで生きよう。俺たちは幸せだからさ、きっと、生きられるよ」
  玲奈はゆっくりと顔をあげる。涙に濡れた頬が朝日を受けてキラキラと光っていた。
  日が昇っていた。海から顔を出した太陽が、海を、草原を、そして空を明るく照らす。素晴らしく美しい、朝だった。
「……うん」
  美しい朝に、玲奈は何を思ったのかは知れない。だけど玲奈は、それでも力強く頷いた。
  二人、たくさんの命が消えていった空を見る。夜が明けた空は、抜けるように美しかった。




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