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死神の岬へ  [作者:直十]

■14

  船の甲板。視覚から送られる情報から導き出した答えではない。慶吾はそれを知っていた。
  否、自分は甲板にいるのだと、慶吾ではなく慶吾が覗いている記憶が知っていた。
  その甲板は、燃えていた。甲板だけじゃない。その船全体が燃えていた。
  あまりに大きくうねり船を包む炎は、真っ暗な空を焦がし海を焦がし、灼熱の色に染めている。
  そこは、海の上で燃え盛る船の上だった。どうしてそうなったのかわからない。
  理解できない。だけど状況を把握した瞬間、慶吾を襲ったのは荒れ狂う濁流のような激情だった。
  それは恐慌と混乱と脳を焦がすほどの恐怖だった。それは慶吾の意識を滅茶苦茶にかき回し、翻弄し、支配する。
  灼熱の炎に染まった視界ががくがくと揺れ、そしてそこに見てしまった。炎の中で踊る影。
  そこから発せられる脳の内側を引き裂くような断末魔。理解してしまう。鼻につく万物を焼く匂いは、人が焼ける匂い。
  たくさんの人が焼けている。この客船に乗ったほとんどの人が焼けてしまったのだと理解する。
  そしてたくさんの人を現在進行形で焼いている炎が眼前にある。恐怖。
  耳の内側からの絶叫が、鼓膜を叩く。慶吾のものではない、男の声。
  炎から逃げるように視界が反転し、そして眼前に広がったのは甲板の手すりの向こうの海。
  真っ黒な夜の海。手すりに縋りすぐ下の海を見る。そこは炎に照らされて赤く染まっていた。
  だけど黒々とした深淵がその奥にわだかまっていた。怖い。だけど逃げ道がない。
  視界の隅に、甲板から次々と身を投げる乗客たちの姿が見えた。船の上にはもう逃げる場所などない。
  だからそうするしかない。炎への、死への恐怖が、夜の海の恐怖に勝った。手すりを乗り越え、飛び降りる。
  瞬間、黒々とした水が体を包んだ。闇しか見えない。上も下もわからない。息ができない。苦しい。怖い。
  闇を抱えた海は、まるで恐怖そのもののようだった。
  体全体を呑み込み、もみくちゃにして、どれだけ足掻こうが絶対に逃れられない恐怖。
  海中でもがくが、何も見えない。闇しか見えない。恐怖が脳を蹂躙する。意識も記憶も嘲笑い踏みにじり殺していく。それは死だった。
  真っ黒の恐怖が最高点にまで達し、最後に炎を映し灼熱に染まった海面を視界にとらえたその時、唐突に記憶と意識が引き剝がされ、
  後ろに引っ張られる感覚と共に、視界が灼熱の海面から夜明け前の草原へ――本来の自分の視覚に戻っていた。
「大丈夫かい?」
  尻もちをついた慶吾の横に膝をつき、慶吾の肩に手を置いた青年が心配そうに顔を覗き込んできた。
  さっき見た記憶が抜けない。意識で感じた本物の死の恐怖に、体が震えた。失禁していないのが不思議なほどだった。
  頬には涙が伝っている。あれは、死んだ人の記憶――?
「そうだよ」
  慶吾の思考を読んだようなタイミングで、青年が頷いた。
「あの人影に触れれば、その人の記憶が見える。僕もけーごくんを引き戻すときに少し見たんだけど……むごい、ね」
  青年は悲しげに眉根に皺を寄せて、振り返った。その視線の先には行進を終えた白い人影の集団がわかだまっていた。
  さわさわと草木のように揺れて、一か所に集まっている。
  恐ろしかった。その、人の形をしている全ての魂が、あの恐怖の果てにここにやってきたのだ。
  それは、死そのものだった。あの記憶で見た夜の海よりもなお暗く恐ろしい、深淵だった。
  死は安寧ではなかった。死は、恐怖だった。その事実に、世界が歪む。
「あ……」
  ふいに背後で玲奈が小さく声をあげた。振り返ると、青年の家のほうからあの魂となった野良犬が、こちらに向かってきていた。
  いや、正確には白い人影の集団に向かって。
  玲奈は野良犬のほうへ駆けだした。野良犬のそばにしゃがんで抱き上げようと手を伸ばすが、生きている人間に死んだものは触れない。
  白い野良犬は玲奈の腕を文字通りすり抜けて、集団のほうへ向かう。
  玲奈は触れることもできないことに悲しそうな顔をしたが、いつものように野良犬の後を追った。
  野良犬は集団から少し離れたところで足を止めた。玲奈も足を止めそばにしゃがむ。
  その時、白い人影たちが一斉に空を見上げた。野良犬も座って空を見る。
  それにつられるように慶吾たちも空を見た。まだ星が瞬く、夜明け前の空。ゆっくりとだが、空が白み始めている。
「……始まる」
  青年の低い呟きが耳についた、その時だった。
  人影の集団そのものが、ゆらりと揺らいだ。
  それからその中の一人がふわりと浮きあがったかと思うと、輪郭を失い中に凝っていた煙が広がるように解放され、
  ゆっくりと薄まりながら、夜が明けていく天に昇っていく。
  それかを契機にしたように、二人、三人と次々人影が天に昇っていき、やがて視界全てを埋め尽くすほどの白い柱となった。
「あ……」
  思わず、声をあげていた。
  それはまるで、死んだ人々が互いに絡み合い、笑い合い、戯れ合いながら、天に召されていくような光景だった。
  人影が輪郭を失い天に昇っていく音すら、聞こえてくるだった。そしてその音が、まるで笑い声のように思えた。




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