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蛍 by なおと蛍 【4】彼女の笑みは、懐かしい歌に似ていた。 街の混沌の中で彼女の背中を見つめながら、僕はふとそう思った。 根拠はない。音を捨てた僕にとって、歌はもう滅んだも同然だ。だけど遥か昔、昔僕が音を恨み、だけどまだ音を受け入れていた頃、聞いたことがあるような歌。懐かしい歌。 彼女は僕に背を向けて、行き交う人々の中で佇んでいた。背中の翼は、蝶の翅のように弱く揺れている。 彼女は笑ってる。背を向けているから、唇は見えない。だけど笑っているとわかる。いつも笑っているから、とかそういう理由じゃない。背を向けていてもわかる。 ふいに―― 本当にそれは、唐突だった。 見つめていた彼女の翼が、ぼろりと崩れた。 思わず、息を呑む。それとほとんど同時に、彼女が振り返る。彼女は笑っていた。唇だけじゃない。目も鼻も眉もあった。見えた。彼女は笑っていた。目をうっすらと細め、頬を緩ませ、唇にいつもの笑みを浮かべて。正真正銘、白い「笑顔」で。 気づけば僕は駆け出していた。その間にも彼女の翼は崩れ落ちていく。翼だけじゃない。彼女の体も。指先からぼろりぼろりと崩れ落ち、それは白い羽となっては砕けて消える。そしてそれらはもう戻らない。 駆ける。たくさんの人にぶつかって何度も転びそうになった。僕は違う地面を踏んでいるはずなのに、混沌は僕の四肢に絡みつき行く手を阻んだ。彼女はぼろぼろと崩れ落ちていく。残るはぽっかりと浮かんだ、白い笑顔。 叫んだ。何を叫んだのかは知れない。音を拒絶した僕には、自身の声さえ届かない。 彼女の、やっと見えた眉が、目が、鼻が、崩れて消える。残るはいつもいつも笑っていた、白い唇だけ。 手を、伸ばす。あと数センチで、彼女に届く。 その先で、彼女の唇が囁いた。その声は。その言葉は。 ――聞こえなかった。 指先で、彼女が消えた。 なおと 著
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