スピッツの曲にまつわるオリジナル小説

蛍 (作者:なおと)

蛍 【5】

 前につんのめりすぎて、派手に転んだ。
 しばらく動けなかった。体の節々が痛かった。肌に接したアスファルトが冷たかった。口の中に錆びた鉄のような味がした。腐敗臭と血が混じったような匂いがした。ネオンの光が瞳を射した。
 そして――
 街のざわめきが聞こえた。
 人波をかき分けて走ったせいか、いつの間にか、ヘッドホンが外れてどこかに行ってしまっていた。
 とっさに、立ち上がる。いない。辺りを見回す。いない。どこにもいない。
 耳を澄ます。聞こえない。聞こえなかった。聞こえなかった。
 最後に、彼女が見せた笑顔。指の先で囁いた言葉。
 僕は、わかってしまったのだ。彼女は最後の最後で、耳で拒絶しても目で理解できるように、ゆっくりと囁いた。だから、気づいてしまった。理解してしまった。
「愛してる」
 呟いても、彼女の声は聞こえない。
 汚されてもよかった。彼女の声でなら、僕の無音を汚されてもよかった。
 でももう、聞こえない。もう遅いのだ。聞こえない。僕は彼女の声を拒絶した。彼女の声は、聞こえない。
 言葉だけがここにあった。だけどもう言葉は耳に溶けず、僕の無音を侵さない。
 彼女の声は、もう届かない。彼女の声は、もう聞こえない。
 ただ彼女の最後の笑顔が、胸に浸み込んでいった。


 一筋だけこぼれた涙が、頬を伝い落ち砕けて消えた。



 -完-


あとがき

雰囲気重視で書いてみました。
ホタルを聴くと、ごついヘッドホンをしてる男の子、無音の人ごみ、翼の生えた女の子、唇だけの笑み、砕け散る羽根……等のイメージが湧きます。その全てを突っ込むとこうなりました。
今回はなるべく歌詞に出てくる単語を使わないように意識したんですが……失敗に終わっている模様です;

※念のため補足。全聾(ぜんろう)とは全く耳が聞こえないこと。

なおと 著