スピッツの曲にまつわるオリジナル小説

eternal1 (作者:ナナ)

初心者マーク【2】

 僕はまだ寝ている頭を振って目を覚ます。カレンダーを見れば4月になっている。
 たまに忘れることもあるけれど、最近はカレンダーを見るようにしている。誰かに言われたんだけど、誰だったか、それさえ忘れてしまった。
 窓の外は青い空が広がっているのと、咲き始めた桜が見えた。
 アオイは今日、病院に行かなくてはいけないらしい。だから、アオイは朝からいなかった。
 そのことを思い出すのと同時に、病院という単語にひどく身震いした。何故だか分からないけれど。
 一人で朝食を食べる、さみしい朝。アオイの笑顔はなかった。
 今日ははっきり言って仕事の途中でくたびれそうだ。アオイがいないだけで、こんなに落ち込むものなのか、とユウトは思う。それでも、会社、いやミノリの所に行かなければならない気がしていた。
 ミノリといると、何というか安心感がある。優しく守ってくれるし、なんでも話を聞いてくれる。それは、アオイといる時とは違った感覚。それは依存と紙一重だとしても、僕は彼女になついてる。
 でも、何故?という疑問が浮かび上がる。
 その疑問に僕は答えることができなかった。

 僕は会社に行った。具合が悪いなら休めばいいのに、僕は休まなかった。まあ、そのくらいで休むのもおかしいと思うけど。

 会社に着いて、いつものようにデスクに鞄を置く。ミノリは早く来ているのだろうか、いつも僕が着くと椅子に座ってこちらを見ている。
「おはようございます」
 僕は上の空で挨拶する。というのも、このときの僕はまったく別のことを考えていた。
「ああ、おはよう」
 ミノリは手元でペンを滑らせている。何を書いているのか訊こうとしたが、そんな雰囲気じゃなかった。
 僕も手元でペンを滑らせる。
 二人しかいない職場でペンの音が共鳴する。その音が、余計にこの部屋の静かさを強調しているわけだが、そんなことはどうでも良かった。
 やがて、片方のペンが止まる。それはミノリのペンだった。書類をファイルに綴じて、それを棚にしまう。かわりに、別のファイルを取り出して、また書類に何かを書き始める。
「で、今日はどうだったの?」
 ミノリはさっきの真面目顔とはうって変わって柔らかい表情で訊いてきた。
「何がですか?」
 ミノリは呆れてものが言えない、というような顔をした。
「夢のことよ。前はあんなに私に語ってくれたじゃない」
 ああ、と今朝の夢を思い出す。
「今朝の夢は特に…昨日みたいに意味不明な夢じゃなくて、アオイ…いや、妻との思い出がスライドショーみたいに流れてくる夢でした。とにかく、意味不明な夢じゃなかったです」
「あ、そう…」
 ミノリはそう呟くだけだった。
「ミノリ先輩は、どうして僕の夢のことが気になるんですか?」
 僕の口から出た疑問は、予想外だった。ミノリも予想外だったらしく、目を見開いている。
 ミノリはまた、何かを隠すようにしながら言う。
「いや…前はあんなに熱心に話してたから…」
「それは先輩が訊いてきたからじゃないですか」
 ユウトは昨日の記憶を手繰り寄せる。確かに、訊いてきたのは先輩だった。
「でも、夢の話を先に引っ張り出してきたのはユウト君のほうじゃない」
 僕は返す言葉が見つからなかった。
「まぁ、そういう時は珈琲を飲めばいいのよ」
 ミノリは急にそんなことを呟いた。
「美味しいんですか、珈琲」
 ユウトは、あの独特の苦味が苦手だった。
「あら、ユウト君は苦手なの?意外だわ…」
「何でそうなるんですか?確かに、あの苦味は苦手ですけど…」
 ユウトはそう言って手元のミネラルウォーターに口をつける。職場ではそれを飲むようにしていた。
「ユウト君は…理系君に見えるからよ」
「そうですか?」
 メガネなんてかけたことがないし、白衣も着たことがない。
 目の前の女上司はいったい何を考えているのだろう。
 ミネラルウォーターを流し込みながら、ユウトはそう思った。

 家に帰って、息を吐く。ユウトは怒りのような、そうでないような感情を抱いていた。何故、そんな感情を抱いているのか分からなかったけれど。
 ミノリの言いたいことが分からなかった。彼女は人を怒らせるマシンみたいだ。
 それよりも、とアオイのことを考える。今朝の夢、あるいは彼女との記憶を思い出してみる。だけど、何か違和感を感じた。現実と夢が逆転しているように感じてしまった。夢と現実は入れ替わるわけがないのに。
 頭に浮かんだ考えを否定する。そう、そんなわけがないのだ。
 アオイは病院に行ったらしい。でも、彼女からのメールは来ていない。どんな用件なのかも訊いていなかった。ただ彼女のことが気になって、今夜は眠れそうになかった。
 それでも、僕は白い闇に滑り落ちていった。

「ねえ、覚えてる?」
 君の声が聞こえて、感覚が研ぎ澄まされる。
「何?」
 僕はおどけた風に言うが、この世界にいきなり放り出されては、それしか言いようがない。
「幼稚園の頃の話よ。いつかは二人でお店やりたいねって…」
 確かに、そんなことを言っていた気がする。花屋さんをやりたいとか言って。正直、言われるまで思い出せなかったけど。
 幼い二人の夢見物語。そう、夢を見ていた。
「うん……」
 僕は力なく頷くだけだった。
「でもさ…このままじゃ、きっと無理だよね?」
 うっすらと目に涙を浮かべて、君は言う。
「うん…」
 僕は解決の糸口を見つけられなかった。
「だよね…」
「でも、僕はアオイとの今の生活に満足してるよ…」
 僕は、ありのままの思いをぶつけた。けれど、君は困ったような顔をする。
「そうやって、夢を諦めたくないの」
 彼女のそういうところが好きだった。何にでも全力で取り組むところ。諦めの悪いところ。
「でも……」
 でも、しか言えない自分がもどかしかった。
「私、こういうときにどうすればいいのか分からないの…」
 彼女の声が、泣き声に変わっていく。僕は泣いている理由を訊きたかった。でも、率直に訊くことができなかった。やがて、君は訥々と語り始めた。
「ユウトがあの約束のことを覚えてて………―――嫌われたらどうしようって…」
「ユウトに嫌われるのが…怖くて……」
 嗚咽とともに漏れる言葉。僕は胸が張り裂けそうだった。
 僕はその思いを押し止めて、彼女の隣に座る。そして、その少し小さい頭を抱き寄せた。彼女の嗚咽が僕の腕の中で漏れる。
「大丈夫だよ、アオイ……」
 彼女に、何度も言い聞かせる。僕はどこにも行かないと。
 やがて彼女は落ち着きを取り戻していった。

 けれど僕は分からなかった。君の涙と言葉の意味が。

ナナ 著