冷たい頬 [作者:那音]
■4
「結婚、するの」
きっとその瞬間、一瞬だけ、世界が止まった。
「サークルで知り合った人なんだけど、この間、プロポーズされて」
でもそれは本当に一瞬だけのことで、頬を少し赤らめつつ話す彼女に、僕はゆっくりと冷静さを取り戻す。
期待を抱いたのは、ほんの一瞬。だから思考が止まったのも、ほんの一瞬だった。
そうだ。
僕は彼女の恋人にはなれない。彼女の、一番になんてなれはしない。
僕はそれをちゃんとわかっている。ずっと昔から、わかっていたんだ。
だからもう、大丈夫。
「……本当? おめでとう」
「ありがと、ゆうくん。それでね、私」
彼女は、とても純粋な満面の笑みで、言った。
「ゆうくんに、一番に伝えたかったの」
――世界が。
世界が、ほんの少しの夢の粒だって弾くような、そんな酷いものだって、僕は知っていた。
それでも僕は、この世界を見ていた。この世界で、彼女を追いかけていた。
届かないことを知りながら、報われないことを知りながら、どれだけ近づいてもどれだけ遠くても、何も変わらないことを知りながら
――それでも、ずっと追いかけていた。
架空の日々を抱きながら、その抱いた空想に身を切られながら、そうやって少しずつ少しずつ壊れながら、追いかけていたんだ。
それでも結局は何もないことを、僕は、ずっと知っていた。
「……なあ」
だけど僕は未練がましく、ほんの少しでも届くんじゃないかと、報われるんじゃないかと、そんなことを思って手を伸ばす。
「……うん? 何?」
手を伸ばして、首を傾げた彼女の頬に、触れてみる。
彼女の頬はオープンカフェの風に吹かれたせいか、少し冷たかった。
「僕は、ずっと昔から君のこと……」
そこで言葉を切る。彼女はそこまで言ってもきょとんとしていて、少しだって期待も不安も覗かせてはいなくて。
――だから僕はもう、完全無欠に諦めた。
「……ごめん。やっぱり何でもない」
「何? やだー、気になるじゃん」
触れていた手を離すと、彼女は屈託なくクスクスと笑う。
笑う彼女はいつも通り可愛らしくて愛しくて、だから僕は心から、痛いくらいの切なさをこめて、笑った。
↓目次
【1】 → 【2】 → 【3】 → 【4】 → 【5】
|