スピッツの曲にまつわるオリジナル小説

猫ちぐら (作者:発芽(旧名:カメ子))

猫ちぐら【完結】

四畳一間。

 それから、台所と便所と風呂。

 二階の小さな部屋を間借りして住む俺には、良家のお前と幸せに暮らす夢なんて、不釣り合いもいい
ところだった。



 あいつは親の決めた相手と結婚をした。

 そうするしか無かった。最初は気持ちを誤魔化していても苦痛は積もるばかりで、あいつは俺に手紙
を寄越した。


“一緒に逃げたい”


 短い言葉と、日時と待ち合わせの場所が書かれていた。

 俺が行かなければ、何時間も一人待ち続けたあいつが街の片隅でどうなるか。

 迎えに行かない選択なんてどこにもなく、あいつの心の叫びを聞いておいて、ほっとけるわけなんて
なかった。なによりも、俺はまだあいつとの暮らしを望んでいた。



「小さな家でも、私は良いよ」


 夜、息を潜めて駆け出したお前は、そう言って俺の横にひっついつて微笑む。

 昼、あいつは、なにげなく歩く道でも、笑っていた。


「ねぇ、見て。蝶よ」

「ねぇ、蟻の行列!」


 まるでそれはささやかな暮らしに、ちいさな彩りをのせるようだった。





 それでも、世界は俺たちを許さない。

 お前と暮らし、こんな幸せが続けば良いと日々を噛み締めた矢先、あいつの家の者と嫁ぎ先の『夫』
がこの部屋を探し当て、連れ戻した。


 投げつけられた幣紙が虚しく舞い上がり、あいつに向けて伸ばした手は、指先を掠め、剥がされる。

 あいつは平手打ちを親から喰らい、乾いた音が鳴り響く。


 お互いの名を呼びあった声は、2つが交わったものの、あいつは車に押し込められ俺だけになる。


「……こんなの、何んになるんだ」


 金なんて要らない。

 地面をえぐりながら拳を握った。


「警察に突き出されないだけ、ましと思え!」

 あいつの父親に胸ぐらを捕まれ、乱暴に脇腹に拳をくい込ませたあと、車に乗る。倒れながらみた景
色で、『夫』はただ一部始終を見届けると、手を染めぬまま、俺を睨みつけた。それから、あいつがい
る車の中へと消え、隣の席へ着く。


車が走り去るのを、痛みで起き上がれないまま、ただ見ていることしか出来なかった。





 お前のために買った使い古された安物の家具も、

お前と産まれてくるこの為に、逃げた先で少しでも良い職をみつけたことも、今となってはなんの意味
も持たない。


 お手伝いさんにやってもらっていたせいか、家事をやらせると不慣れでなにもかも精一杯。三角形も
作れないぶっ格好のおにぎりに笑ったりもしたけど、俺のために料理するお前の姿が愛おしかった。


 あいつの腹にいる子は俺の子ではないけど、それでもいいと思った。

 逃げ出したあいつと一緒に腹の子もまとめて、幸せにしてやろうと思っていた。






 あの日、逃げなければ良かったのか?

 いや、そんなことあるもんか。

 あの時は、お前と逃げ切れると思った。

 どんな罰だって、振り払える気がしてた。





**


 あの短い日々が、あっという間に砂の城のように崩れ去って、お前の居ない世界はモノクロに無性に
涙が込み上げそうな日もあるけど。


 なぁ。もうすぐ、赤ん坊は生まれる頃だろ?

願いは叶わなかったけど、きっと、此処じゃない何処かの並行世界で、俺とお前と、赤ん坊が幸せに暮
らしてる…


ーーそんな想像をしたら、楽しくなって笑えて来た。


 空想の世界でも何でも良い。

 どうかお前も、顔を上げて生きて欲しい。きっと僕らはそれだけで幸せになれるから。

発芽(旧名:カメ子) 著