スピッツの曲にまつわるオリジナル小説

フェイクファー (作者:朱音)

フェイクファー 【4】

僕は彼女との再会を望んではいなかった。
運命だとかそんなものを手繰り寄せた覚えもない。
空き時間にたまたま寄った喫茶店で、忙しそうに働く彼女に遭遇した。
何年も経っているのだから、少しは外見とかも変わっていたけれど、
付き合っていた頃の面影は残っていたし、さすがに付き合っていた彼女を忘れるほど薄情ではない。

彼女はあの頃と身なりが変わってしまった僕のことを、気づいていたのか気づいていないのか、
僕にあのときのように微笑んで、普通の客に対する態度と同じように水を出した。
「ご注文がお決まりになりましたらお呼びください」と礼をして、至って普通の態度で僕に接した。
普通の態度?僕は、彼女に他とは違った態度を望んでいたのだろうか。
彼女の中から僕の存在が忘れられてしまったようで、
僕の心に少しだけ痛みが走ったけれど、その痛みが切なさだとはすぐに気づくことが出来た。
どうして今更切なさを感じているのかまでは判らなかった。


切なさの正体は、焦燥感、そして羞恥だった。
あの頃の自分を思い出して、失くしたものが存在を主張し、ようやく自分を恥じた。
過去に戻りたかったわけじゃない、過去の自分を恥ずかしいものだとようやく認めたんだ。


時の流れは矢張り、残酷なものでもあるらしい。
こうやって自分の存在が誰かの心からなくなって行くことが淋しかった。
今更淋しさを感じてもどうしようもないのに、歩いてきた道のりを否定されているような気がした。
ただの被害妄想だ、判っている。
見上げた窓の外に広がる空に描かれていく飛行機雲と、今の僕の心情が重なっていたたまれなくなった。
センチメンタルに浸れる理由なんてなんでもいい。
それでも運ばれてきたブレンドコーヒーとタマゴとハムのサンドウィッチはとても美味しくて、
味なんか判らなくなってしまうなんてことはない自分自身は結構冷静なのかな、と思ったりもした。


逃げ出したいとかいう衝動に駆られていたんだろう。
食事から会計までの時間は、とても早かった気がするからだ。
僕は伝票を掴んで会計を済ませると、携帯電話を取り出して、杏奈の番号を呼び出した。
仕事中かと思われた彼女は2コールくらいして電話に出た。
喜びなんて、こんな身近に落ちているものだ。
自分が見つけようとしないだけで、すぐ近くに小さな幸せや喜びは潜んでいる。
「もしもし」と聞こえてくる声が無意識に張ってしまって薄い膜を破って、心に空気が染み込んだ。
それくらい僕は緊張していてとても息が苦しかったことを、杏奈の声を聞いて自覚した。

『どうしたの?』

いつまで経っても喋らない俺に焦れて、彼女は問いかけてくる。
僕は指先の震えが止まらなくて、「なんでもないんだけど」とそれだけ必死で伝えた。
声が震えているのは、杏奈に気づかれはしなかっただろうか。

朱音 著