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日なたの窓に憧れて  [作者:金木犀]

■2

赤崎幸市が神尾奈緒と出会ったのは25年前の六月だった。大学を卒業した赤崎はS市の市立図書館の司書をするコトになった。
司書といっても、本の貸し借りの受付や整理をするだけのコトだけで、空いた時間は本を読んで過ごしていた。
赤崎はこの仕事に「やりがい」を感じていなかった。雑務ばかりこなすのにウンザリしていた。今まで何百回本を棚に戻したことか。
特に平日の昼間は殆ど利用者がいない。いたとしても主婦か浪人生くらいだ。受付にいても暇で暇で仕方がなかった。
(俺はここにいる必要があるのか?)そんなコトを思いながら、館内中にある棚に目をやった。「哲学・論理」と書かれたプレートが貼られている。
いつも通り、そこには人影すらない。あそこに立ち寄っている人間を見たことがない。
「清水さん…あそこの棚の中の本って、借りる人いるんですか?」
その本棚に指を刺し、赤崎は後方にいた清水さんに質問してみた。パソコンでデータ整理をしている初老の男が館長の清水だ。
「んー…最近は見ないね。昔は大学生がよく借りに来てたけど、大学内の図書館とか使う人が増えたからねぇ。」
「今じゃ大学内の図書館のほうが資料が豊富ですしね。」
「確かにねぇ。…おや?」本棚に目をやった清水が何かに気づいた。…人がいる。「哲学・論理」の棚に誰かがいる。
「珍しいな。あそこに行く人なんて滅多にいないのに。」
しかし、人影の背丈はとても低かった。1メートルくらいの人影…いや、車椅子だ。車椅子に乗った成人女性だった。
「ほぉ…何年ぶりかね。あそこに人が立ち寄るなんて。」
彼女は上段の棚に手を伸ばしていた。一生懸命本を取ろうとしていたが、どう頑張っても届かない位置に、彼女の目的の本があるらしい。
「今から館員が向かいますので待っていてくださーい。赤崎君、行ってあげてくれないか?」
清水さんがカウンターから彼女に声をかけた。大きな声だったが、館内の利用客が少ないせいか誰も気に留めなかった。
赤崎はカウンターを清水に任し、彼女のいる所へ向かった。赤崎がそばに行くと、彼女は申し訳なさそうに頭を下げた。
ロングヘアー似合う、顔の整った女性だった。膝には毛布がかかっていて、小さいポーチを大事そうに抱えていた。
「どの本です?」赤崎は彼女に訊ねた。彼女はゆっくりと上段の本を指差した。
「『論理哲学論考』…ウィトゲンシュタインか。」手に取った本を見ながら、赤崎は呟いた。
赤崎はウィトゲンシュタインを嫌っていた。天才哲学者と謳われた彼の無駄のない文章を、赤崎は反吐が出るほど徹底的に嫌った。
「大学の課題で読まなければいけないんです。…読んだコトあるんですか?」
「昔ね。僕はあまり好きじゃない。」手に持っていたハードカバーの分厚い本を、彼女の膝の上に置いた。
「…ありがとうございます。」彼女は本をぎゅっと持って、赤崎に礼を言った。
「仕事なんで。」赤崎は不機嫌そうに答えた。
彼女は赤崎と一緒にカウンターに向かい、赤崎が取ってくれた本を提出した。清水さんは本の内側にあった貸借カードを取り出した。
「利用者カードは?」清水さんが彼女に訊いた。
「今日はじめて来たんで…まだ作ってないです。」彼女は言いにくそうに答えた。
赤崎は面倒そうに彼女にボールペンと記入用紙を渡した。彼女は申し訳なさそうに頭を下げた。
彼女はペンを貰うとカウンターで記入用紙に名前を書き始めた。
(神尾…奈緒か。)

赤崎は彼女の中の「何か」に苛立ちを感じていた。赤崎自身、その「何か」を分かっちゃいなかった。
その捻くれた感情の「正体」を知るのは、まだ先のコトであった。



↓目次

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