死神の岬へ [作者:直十]
■11
「でもね、それを成し遂げるにも一筋縄じゃいかなかった。誰にも認識されないってことは、誰もが僕のことを忘れるってことだから。
まさか僕から他人に僕のことを忘れさせるなんてことはできるわけなかったし、僕を知っている人が全員死んでしまったらそれも可能だけど、
これまた僕が殺すわけにもいかないし。自然に死ぬのを待っているには、時間は長すぎるしね」
慶吾は青年に言われるまでもなく、確信した。
「だから、と言うべきかな。僕は絶望した。全ての人間から忘れられるなんてほとんど不可能で、そのために必要なあまりに膨大な時間に、
僕は絶望したんだ。だから死のうと思った。 目標を達成できないんだったら、生きている意味もない。
そう思って死に場所を求めて彷徨ってたんだ。……君たちみたいにね。そうして君たちみたいに、ここに辿り着いた」
青年はもう、辿り着いたのだ。唯一の存在に、なったのだ。
「ここに辿り着いてもう、八年になる。ここでは本当にゆっくりと時間が流れるから、向こうでは僕がいなくなってから百年近くは経ってる。
確認はしてないけど、両親はもうとっくに死んでるだろうし、当時の友達だってきっと生きてない。僕は世界中のすべての人間から忘れられて、
認識されなくなったんだ」
それは、噛みしめるような言葉。
「僕はやっと、唯一になれたんだ……」
その言葉を耳に受けながら、慶吾は青年の笑顔を思った。
それはほんの少しずつの自嘲と苦痛と悲哀と、だけどそれを補って余りあるほどの幸福を織り交ぜた、
この青年にしか浮かべることができないような、唯一の笑顔。
それはつまり形としては全ての責任を放棄した自嘲と、全てから忘れ去られた苦痛と、親や友達の死に目に会えなかった悲哀と、
だけどやっと唯一になれた圧倒的な幸福を織り交ぜた、唯一である青年の全てを表した、完璧に唯一な笑顔。
「八年間、ずっとここで自給自足の生活をしてた。時々ここにやってくる人たちと関わりながら、生きてきた。まあここに来た人は、
ほとんど死んじゃったんだけど」
それはそうだろう。ここに来るということはつまり自殺しに来た人だ。かなり高い確率で自ら命を絶つ。
「そのマントは、どうしたんだ?」
青年がここに来た経緯は知れた。だから慶吾は疑問に思ったことを口にした。青年はああ、と頷いてから答える。
「向こうにいたころの、ちょっとした思い出の品なんだ。だからなるべくいつも着てる。だから死神ですか? なんて言われちゃうんだろうけど」
肩を竦めながらの皮肉っぽい言葉に苦笑する。苦笑しながらごめんと言うと、こちらも笑いながらああ別にいいよと返してきた。
「じゃあ、その目は?」
「目? ……ああ。この瞳か」
青年は瞼の上からちょっとだけ目を撫でる。
湖面、もしくは空に似た澄んだ青の瞳。顔立ちは完全に日本人なのにその瞳の色は異様だった。
クォーターとかだったら有り得たりもするのだろうか。
「元々は、黒だったよ。だけどここに来てからどんどん色が薄くなってこんな色になった。ここの仕組みは暮らしていくうちに理解してきたけど、
これだけはいまだによくわかってない」
慶吾はぼんやりと、青年の青い瞳を見つめる。
あるいはそれは、証なのかもしれない。あんなに綺麗で澄んだ色の瞳を慶吾は見たことがない。
いや、きっと世界のどこを探してもあんなに綺麗な色を持つ人間はいないだろう。
だからきっとあれはこの世界で唯一となった青年の、唯一としての証。そんな気がした。
「僕の話は、こんなものかな。長々と訳のわからない話して、ごめんね」
「……いや。そんなことは、全然ないよ」
本当に、そんなことはなかった。なぜだか泣きそうになっていた。なんでだろう。唯一になったこの青年が、羨ましかった。
「僕はね、幸せだよ。僕を唯一にしてくれたこの地で、ずっと望んでいた唯一のままで、ずっと生きていけるんだから」
幸せ。青年の口からこぼれたそれは、慶吾がここに来る前、きっと死んでいた時に感じていた幸せとは圧倒的に違うものだ。
なぜなら慶吾はこんなふうに、愛しむような優しい声でその言葉を口にできないのだから。
それは些細な違いなのかもしれないけれど、少なくとも慶吾にとってはとんでもなく大きな違いだった。
ああそうか、と思う。
彼は幸福なのだ。慶吾とは全く違う、本当の意味での幸福。慶吾にはそれが本当に羨ましかったのだ。
――なんとなくだけれど、わかった気がする。
慶吾の幸福と青年の幸福は違う。だけどそれでも、慶吾の幸福は確かに幸福だった。幸福に本物や偽物があるわけではない。
あるとすればそれは、今ここにある幸福を十全と感じられない慶吾が、偽物だったのだ。
学校生活は幸福だった。それは確かに絶対に幸福だったのだ。それはもう、間違えようもない事実だ。
だけどどうして、幸福であると思えることが幸福だと気付けなかったのだろう。
悲しかった。でも、それに気づけたことが嬉しかった。
自分は、幸福なのだ。今まで感じていた幸福とは違う。本当に、幸せだと実感できる、幸福だ。
「……なあ」
「なんだい?」
「あんたのこと、忘れないでいていいか?」
それは、ある意味では青年を殺すような願いだった。青年は世界中の全ての人間に忘れられることで唯一となったのだ。
たった一人、慶吾が覚えているだけでもその唯一は崩れてしまう。
「……うん。いいよ」
だから青年が頷いた時、慶吾は思わず顔をあげてまた「いいのか?」と確認してしまった。
「いいよ。僕のこと特別に思ってくれるんだろ。けーごくんにとっての特別も、きっと唯一さ」
それに、と青年は続ける。
「生きるんだろう?」
嗚呼、と思う。
きっと青年は、わかっているのだろう。慶吾の心も、気持ちも、全部。理解した上でそうして優しくしてくれる。
きっと青年は、理解しているのだろう。世界の真理も、幸福も、全部。この唯一である青年なら、そのくらいのことはできるのだろう。そう思った。
さあと風が吹いた。広げた塩が舞い上がり、キラキラ光って綺麗だった。
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