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死神の岬へ  [作者:直十]

■10

「単刀直入に言っちゃうと、僕は人間だよ」
  家の前に茣蓙を敷き、その上に白い布を敷いて、その上に海水から抽出した塩を広げる。そうしてまだ湿気を孕んだ塩の水分を飛ばすのだ。
  それほど風があるわけでもなく、柔らかな日が降り注ぐような陽気は、乾燥にはもってこいの日和だった。
「君たちと何ら変わりない、本当に普通の人間。幼いころはちゃんと向こうで育ったし、
両親もいた。学校にも行ってたし、そうだな……高校までは向こうにいたよ」
  日を浴びてキラキラ光っている塩を縁側に座って眺めながら、慶吾と青年は話していた。
  外に出た時に辺りを見回してみたけれど、玲奈と白い犬の姿は見当たらなかった。
「だけどね、僕の目的は……目標は、勉強とかそういうので達成されるものじゃなかった。
けどそれ以外の方法でもそう達成されるものじゃない。そういう目標を持ってた」
「目標?」
「そう。僕はね、唯一になりたかったんだ」
  慶吾はぽかんとする。そんな反応は予想していたのか、青年は丁寧にまた同じことを言ってやる。唯一になりたかったんだ。
「……唯一?」
「そうだよ。本当の意味での唯一。人間には名前があって個性があって、それでもうその人は世界でたった一つだけなんて言うけど、
同じ名前の人なんてそりゃ沢山いるだろうし、同じ性格の人だって山ほどいる。
少なくとも人間の認識上で全てと全く違う人間なんて一人もいない。僕はね、それが本当に嫌だったんだよ」
  青年の言葉の大半を、慶吾は理解できなかった。だけど語る青年の横顔はあの時の瞳のように真剣で、だから慶吾は黙って聞いていようと決めた。
「たとえば、ちょっと嫌な話だけど僕はあんまり両親が好きじゃなかった。僕は父親似だったから、特に父さんがね。
だって僕は唯一になりたいのに、この体そのものが父さんとほとんど同じなんだよ。たとえほんの数パーセントでも、
自分と同じ人間がいるということが嫌だった。だから親を殺すっていう人の気持ち、少しわかるんだ。
多分そういう人の大抵がそういう理由だと思うんだ」
  慶吾はふと思う。もしくは青年は、自分の父親を殺そうとしたことがあるのかもしれない。
  そういう勘繰りは失礼だろうけれど、なんだかそんな気がした。その言葉の裏には、そういう感情――いや激情か――が感じられたから。
「けーごくんは、唯一になる方法ってなんだと思う?」
  唐突に問われて、ちょっとびっくりした。少し考えて、言う。
「他の人間がみんな死んじゃう、とか……?」
  ははは、と青年は笑った。軽くショックだった。笑われた。
「確かにそうだね。確かにそれは完全無欠に唯一だ」
  でもね、と青年は続ける。
「僕は、世界中の全ての人間が僕という存在を間違いなく認識することで唯一になれると思ったんだ。
たとえば、アインシュタインとか。アインシュタインと聞けば、世界中の誰もが舌を出した姿で象徴される“彼”を思い浮かべる。
他にアインシュタインという名前の人間がいるにもかかわらずね。つまりアインシュタインという人間はこの世界でたった一人、彼だけってことになる。
それはつまり唯一ってことでしょ?」
  青年はまるで、悪戯のばれた子供のように小さく笑った。
  慶吾は少しだけ、少しだけだけれども理解できたような気がした。後にも先にも「アインシュタイン」は彼一人だけだ。
  それはどうしようもないぐらい完璧な、唯一だった。
「だけどそうなるには並大抵な努力じゃきかない。たとえ死ぬほど頑張っても可能性は小数点以下だ。
小数点の下にゼロがいくつあるのかも知れない。だから僕はもう一つの別の方法で唯一になろうと考えた」
  唯一になる、というとても曖昧な目的にまだ方法があったのかと驚く。だけど次に青年の口から出た言葉は、やはりというかさらに慶吾を驚かせた。
「もう一つの方法は、それとは逆。世界中の全ての人間に認識されるんじゃなくて、世界中の全ての人間に認識されない存在になること。
名前さえ捨て去った、誰でもあるけどそれでも誰でもない存在。僕はそれになろうと考えたんだ」
  名前さえも捨て去った。その言葉に、慶吾はそういえば青年の名前を知らないことに気づいた。
  青年は慶吾たちが名乗った時、自分も名乗ろうとはしなかった。そのあとも一切、明らかに年下の慶吾にあんた呼ばわりされても、
  自分の名を言おうとしなかった。
  もしくは、言えなかった。青年は自分の名というものを持っていないから。――捨て去ったから。
  慶吾の表情の変化で慶吾の考えていることも見透かしたのか、青年は慶吾の顔を見て自嘲的な笑みを浮かべた。



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