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夜を駆ける [作者:すず]

■八

泣いているわたしに、男のひとは気づいているのだろうか。
そんなことを気にしながらも、涙は静かに流れてくる。
つらい、というよりも、涙がわたしの心を洗い流しているようで、心地よかった。
ようちゃんの前でも、こんな気持ちで泣くことなんてなかったのに。
今夜は、大切なねじがひとつ緩んで、全てがあふれ出ているような感じだった。

「大丈夫ですよ。」

男のひとは、仰向けのまま言った。

「悲しい気持ちが消せないのなら、それでもいいんです。
たまには泣いて、そうすれば必ず、悲しみがうすらぐ時がきますから。それでいいんですよ。」

男のひとの声は、柔らかい毛布のようにわたしを包んだ。
胸の奥が温かくなって、手足の先までじんわり広がっていく。

父さんに会いたい。
そんな気持ちが強くなるのは、きまって冬の夜だった。
いつもその事を考えてしまって、叫びたいほど悲しくなるというわけではない。
ただ、帰り道にきれいな夕焼けを見たとき、おいしいご飯を食べたとき、大好きな音楽を聴いているとき、
ふとそう思って、泣きたくなるのだ。
それは、ほんの一瞬の、とても小さくて、でも、とても強い感情だった。

「冬の夜」が嫌いなのではない。
冬の夜の思い出と、冬の夜に襲われる、その強い感情が怖かったのだ。

叶わない願いをいつまでもいだくのは、後ろばかり見ているようで嫌だった。
それでも、会いたい気持ちはいつまでも残る。
この気持ちを、いつか消化できる日がくるのだろうか。
それは、誰にも委ねられないのに、とてもひとりでは抱えきれないもののような気がした。

「会いたいけど、もう絶対に会えないひとがいるんです。
会えないのに、会いたくてたまらなくて、つらいから、その気持ちを見ないようにしているんです。
いつまでもこんなふうに逃げるのか、ほんとに、いやになります。」

何でこのひとにこんなことを話しているのか、自分でもよく分からない。
頭の中は冷静なのに、口からことばがこぼれ落ちているような感じだった。

「悲しみや寂しさを直視できない時は、それでいいんですよ。
真正面から立ち向かうことができなかったとしても、そんな自分を受け入れられるときが、必ずきますから。
無理をするのは、一番良くないことです。」

「…でも。」
わたしの声を聞いて、男のひとはこちらを見た。
「でも、直視できないって、それって逃げているってことでしょう。
ずるいんですよ、わたし。自分の気持ちを見ないで逃げているんだから、ずるいってことでしょう。」

わたしの目をまっすぐ見て、男のひとは、ゆっくりとことばを紡いだ。

「生きるためなら、時には逃げたっていいんです。
会いたいひとに会えないときは、泣いたっていいんですよ。
そして、そのときに隣にいるひとを、大事にしてあげて。
会いたいひとに会えなくても、いま隣にいるひとが、必ずいますから。」

男のひとの声は、もはやわたしの耳ではなく、心のなかに直接「ことば」として届いていた。

「…ありがとう。」

父さんが亡くなった後も、わたしには母さんがいた。
仲の良い友達もいるし、今はようちゃんがいる。
自分を不幸だと思ったことはないし、むしろ幸せに生きていると感じている。
大好きな人たちがそばにいて、健康に、不自由なく暮らしているのだから。

それなのに、父さんがいないことを寂しがっているのは、わがままだと思っていた。
ないものねだりをする自分は嫌だった。
だから、そんな自分を見ないようにしていたのだ。見ないようにして、寂しさの理由を深く考えることから逃げていた。
そして何より、そうやって逃げている自分が嫌だった。
寂しいことを自覚しているくせに、その理由も分かっているくせに、気づかないふりをしている。
そんな自分がたまらなく嫌だったのだ。

会いたいひとに会えないときは、泣いたっていいんですよ。

この言葉は、自分でも驚くくらいにわたしの心を軽くした。
心の中の、いちばん見たくない、いちばん見せたくない、固くて濁ったかたまりのようなものが、溶かされたような気がした。
深い雪が、春の太陽に暖められて溶けていくように。
この男のひとには、わたしの全てを見透かされている気がする。自分でも見えなかったところまで。



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