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夜を駆ける [作者:すず]

■七

夜の校庭は、しんと静かだった。
風が止み、木々の葉音がおさまると、男のひととわたしの呼吸する音だけが、耳に入ってくる唯一の音だった。
鉄棒、のぼり棒、ジャングルジム。うんていに、タイヤのぴょんぴょん島。
わたしが小学生の頃のままだ。ここを卒業して15年以上経つのに、校庭の景色は何も変わっていない。

すごい、月がきれいですよ。

空を仰いで、男のひとが言った。さっきアパートの窓から見たのと同じ半月。
でも、今ここで見る月は全然違うもののように見える。
この月を見たのは、本当に同じ夜のことだったのだろうか。
アパートにいたことが夢だった気もするし、今ここにいることが夢であるような気もする。

男のひとは、どさりとかばんを肩から下ろした。
ちょっと休憩。そう言うと、男のひとはそのままごろりと仰向けに寝転んだ。
わたしも少し疲れたので、隣に寝転んだ。このほうが月もよく見える。
厚いコートの生地を通して、地面の冷たさが背中にじわじわと届いた。

その時、コートのポケットに、こつりと硬い物の感触がした。飴を持ってきたのを忘れていた。
よかったらどうぞ。横になったまま男のひとにも一つ渡した。男のひとも寝転んだままこちらを向き、ありがとうと笑った。
透明のフィルムを剥がそうとするが、手がかじかんでうまくいかない。
歩いている時は感じなかったが、体は相当冷えていたらしい。
なんとか剥がして、飴を口に入れた。冷気を含んだような、ひんやりとした感触がする。
口の中で転がしていると、体温で飴がゆるゆると溶け、ハチミツの甘くて苦い味が、舌の上に広がっていった。
ポットの湯気のように、男のひととわたしの吐く息が、闇の中に白く上がっている。
今、男のひととわたしの口の中は、同じ味がしているのだろう。

「こんな冬の夜に、校庭で寝転んで休憩している人なんて、他にいないでしょうねぇ。」

のんびりした男のひとの声に、わたしはまた頬がゆるんでしまう。
冬の夜。わたしが一番嫌いなはずの時間だ。それなのに、今はちっとも怖くないし、寂しくもない。

「わたし、冬の夜が嫌いなんです。でも今は、すごくいい気分。不思議な感じです。」

「…冬の夜が嫌いなんですか。何かいやな思い出でも?」

 

 

いやな思い出のせいで、冬の夜が嫌いになったわけではなかった。
それでも、ただ漠然と嫌いなのかというと、そうではない。それは分かっている。ずっと前から。

母さんが運ばれた、病院の寒くて暗い廊下。泣きながら歩いた、誰もいない深夜の病院の駐車場。
コートにしみ込んだ涙と、1月の夜の空気の匂い。

それらの、はっきりとした記憶だけではない。
冬の夜が嫌いだと気づいたのは、母さんが亡くなるずっと前だったから。

「いやな思い出があると言えば、それもあります。
でも、それだけじゃなくて。記憶はないけど、覚えているような気がすることがあるんです。」

そう、わたしにとっての、冬の夜の思い出。
それは、飛び散る火の粉や、消防車のサイレンや、泣き叫ぶ母さんの声だ。

火事のことについて、母さんは多くを語らなかった。悲しい記憶をわたしに伝える必要はないと思ったからだろう。
それに、母さん自身もそれは思い出したくないことだったはずだ。
話は聞かなかったし、まだ生まれていなかったわたしは、火事の記憶などあるはずない。
記憶はないが、その夜の様子を思い出すことがある。確かに知っているような気がする。
そして、その度に胸が苦しくなるのだ。

人はいつか死んでしまうのだし、それが仕方の無いことだというのは分かっている。

でも、なんでいなくなっちゃったの。父さんの顔も見られなかったし、声も聞けなかった。
父さんに会いたい。
父さんと、母さんと、わたしと。三人で同じ時間を過ごしたかった。

そして、大人になった今だから分かる、母さんの想い。
生まれてきた子を、父さんに抱いてもらえなかったなんて、どれ程やるせない気持ちだったのだろう。
一人でわたしを育てていくのは大変だったと思うが、母さんが泣いている姿を見たことがなかった。
怒られたり、けんかをしたりすることも、もちろんあったけれど、わたしが思い出すのは、いつも笑っている母さんの顔だ。
最期まで、本当に強い人だった。

そんな色んな気持ちがないまぜになって、気がつくとわたしは泣いていた。
頬をつたった涙が、耳たぶの上をすべっていく。こんな所で泣いちゃだめだと思ったが、涙は止まってくれない。
最初は涙で滲む程度だった月も、もうすっかり見ることができない。
声を出さずに泣きながら、もう随分長い間泣いていなかったな、ということに気がついた。



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